本性
今年は精神的に結構ヘビーな一年だった。
夜、ベッドに入るといつも思う。
今夜も眠れそうにないな、と。
ここ数年、母の認知症に伴って、父についての問題というか心配事もあって、眠れない日が長いこと続いている。
父親というのは、息子から意見されたりしても素直に聞き入れたりせずに、寧ろ、お前誰に向かって言ってんだ、という感情が露骨に表情に表れたりして、話の途中からそっぽを向いてしまったりする。
それでも父の気持ちを聞き出そうと、イライラする気持ちを抑えて話を続けると逆ギレされて、そんな理不尽に対してこっちも頭に来て、じゃ勝手にしろや!みたいな流れで話し合いが終わる。ということを母が認知症になって以降、何度繰り返したか。
こういうことを繰り返していてふと思った。
父はこういう人間だったのか、と。
母の認知症が進むにつれて、父の本性が徐々にあらわれてきたように感じるのである。
もともと、社会性に欠ける人であることは感じていたが、母が施設に入居し、父の一人暮らしが始めると、社会性の欠如が著しくなった。
というよりも、母の不在によって、もともとの社会性の欠如が表出してきた、といったほうが正確かもしれない。
父と社会をつないでいたのは母だったのである。継手の役割だった母がいなくなったことで、父は社会との関わり方がわからなくなり、親戚を含む周囲の人間(そこには僕も含まれる)を遠ざけるようになった。そして、ものすごく偏屈な人間になってしまった。
とここまで考えてさらにふと思った。
父は生来の偏屈者なのか、それとも社会との関わりが希薄になったことで偏屈になったのか。
そう思い当たり、父の過去を振り返ってみた。
父は、一見、親切なようでいて、その親切の裏にはいつもなんらかの見返りを求めていたし、自分と異なる意見などには耳をふさぎ、そのせいで、結果がとんでもないことになっても、決して自分の非を認めない。どころか事実を捻じ曲げてしまう。そんな人間だった。
つまり、父の本性は偏屈な人間なのだろうと思う。
日頃、本性は見えにくい。というか、みんな隠している。僕も含めて。
そして、その隠された本性は、ものすごく生々しく、どぎつい色をしていて、気味悪く脈打っている。